保健室の雪子さん

鼻がきく僕にはわかる。 廊下を颯爽と歩く彼女とすれ違うとき、必ず雪の匂いがする。 高く結い上げた真っ黒な髪。勝気な目元。自身の表情を隠すように覆っているマスク。ジャージを緩く着こなし、左肩にスクールバッグ、袖を捲り上げた華奢な右腕にコート。 冴えていながら怠そうな顔がぼんやりと先を見つめてスタスタと歩いていく。 この学校にいる数パーセントの「保健室登校生」ってやつだ。

赤うさぎ

10年前

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彼女は教室に行かない。 学校に来て、まずは上靴に履き替える。次にポケットに手を入れながら歩き、猫のようにぶるぶる震えながら、指先を温める。指先を温め、足を進め、目的地で止まる。そして、温めたその手で開くのは教室の扉ではなく、保健室の扉。朝早くに見かけた時は、そんな風だった。 名前は知らない。クラスは別。 名前も分からないので、彼女のことは『保健室の雪子さん』と、僕の中だけで勝手に呼んでいる。

しとっぴ

10年前

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『雪子』さんは晴れの日には学校に来ない。 逆に冷たい雨の日にはいつもいる気がする。 そう、今日みたいな。 彼女がどうして保健室登校なのか、僕には全くわからないけれど、僕はわざわざ知りたいとも思わない。 ただ、『雪子』さんの下駄箱の中の靴を整えて、その後ろ姿を見つめるだけだ。寒い冬の綿のような雪の匂いを感じながら、彼女が教室に登校する日が来るのかな、と想像するだけだ。

Dangerous

10年前

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ある日僕は保健室に来ていた。体育の授業で転び膝をすりむいたからだ。 保健医は席を外しているようで、仕方なく棚の中の絆創膏を拝借することにした。 布の擦れる音がして振り返る。 誰もいないと思っていたが先客がいたらしい。一番奥のベットにカーテンが引いてあった。 もしかしたら、なんて淡い期待が生まれる。 今日は朝から冷たい雨が降っている。 『雪子』さんがいる可能性は十分あるだろう。

雪中花

9年前

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心臓の熱さが擦りむいた痛みを打ち消した。ああ、でも、この頬の熱さを『雪子』さんに見せてしまったら、あの雪の匂いが溶けてしまうのではないか。 僕は血液が滴り靴下を濡らしていることにさえ気付かず、カーテンに閉ざされたベットを凝視していた。 時計の針が進む。僕は雪の女王の魔法を受けて氷像と化したかのように、その場から動けなかった。あまりここで時間を過ごしていたら、不審に思った教師が来るかもしれない。

Ringa

9年前

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でももしかしたらこのカーテンの奥に、あのマスクの中身が、あのいつもする雪の匂いが、あの『雪子』さんが。 開けたい。 でも見たら溶けてしまうのでは? いや逆に凍らされるのか? アホか。今すぐ自分を蹴り飛ばしたい。しかし気持ちは鎮まるどころか、伸ばした腕はそのままだ。 開けてしまおうか。 結局我慢できず、怪我をして血がダラダラ垂れている膝など忘れた僕は、一番奥のベッドのカーテンに手をかけた。

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「雪子さん……」 はっとして口を押さえたし、咄嗟に辺りを見回したけど雪子さんは見ていなかった。 すやすやと呼吸音が聞こえてくるほど心地好さそうに眠っている。僕はほっとして胸を撫で下ろした。 気付かれないかと緊張しながら、近くにあった椅子に座る。 こんなに近くで見るのは初めてだ。 「……長いんだけど」 パチっと開いた瞳が僕を見つめてる。 「うわっ」 「うわって何よ。うわって」

8年前

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雪子さんが起き上がる。 結われていた髪はほどかれ、肩の下まで垂れており、首を傾けて僕を見つめるその瞳は朝日に照らされた雪のようにきらきらと輝いていた。 同時に、あの雪の冷たく甘い匂いがふわりと漂い広がる。 その匂いに触れた瞬間、僕の鼓動は波を打ったように早まる。 「あっあっああ、あの…」 雪子さんの視線が下がる。 「おおお起きてたん…」 「血、出てるけど」

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「あ、えっと、体育で転んで」 雪子さんの視線が戻ってきた。 「膝もだけど、鼻」 「え、はな?」 滴るものを感じて、鼻をこする。 鼻血が出ていた。それでも白い雪の匂いだけが僕を占めていた。 「ゆ、雪子さんは、身体悪いの?」 「陽の光に当たると、溶けてしまうの」 溶けないでほしい。 それから、ふと 「ほんとに“雪子さん”、だったん、ですか?」 「さあ」 ふふっと白い歯をのぞかせた。

- 完 -