漱石さんに物申すアイラヴユーの訳し方
「夏目漱石はアイラヴユーを月が綺麗ですね、と訳したそうですが、皆さんだったらどう訳しますか?」
先生が言った。
みんな難しい顔をして、一様に考え込み出す。
風が窓を叩いた。春の雷雨がすぐそこまでやってきている。
「先生、そんなの簡単さ。」
僕の右隣の左手がすっと伸びた。
「はい、茶倉くん。では聞いてみましょう。」
「生きて。だろ。」
彼が言うには重すぎる言葉だ。
遠雷がひとつ轟いた。
- 1 -
茶倉陵は大切な人を失ったばかり。その人と入水自殺を図り、片方だけが死んでしまったらしい。
「なあ茶倉」
休み時間に茶倉に声を掛ける。
「なんだ、森」
「さっきの和訳……よく思い付いたな」
聞けなかった。アイラヴユーを生きてと訳した理由を。あの事件と関係があるのだろうか。
「別に。森より兄さんだから当然さ」
「兄さんって、僕より六月早生まれなだけじゃないか」
「変わるのさ。六月の差は」
- 2 -
彼の言葉の真意が掴めず、思わず言葉を失くす。新学期を迎えた教室内は一層賑やかで、彼の存在をより異質なものにしていた。
「死んでもいい」
彼が呟いた。
周りの喧騒と、僕らを包む空気は交わらない。
「……って、訳したやつもいたな」
「それ……誰の話?」
「どこかの文豪さ」
窓を小さく弾く雨音が聞こえ始めた。折角咲いた桜も散るんだなと、頭の片隅で思った。
僕は、彼の事を何も知らない。
- 3 -
僕、あるいは僕の学年の皆が知る、彼についてのたったひとつのこと。
彼は、事件のあと長く入院していて留年した。僕らからすれば、彼は一学年分先輩だ。
尤も、彼は十二月生、僕は六月生。けれどその半年は、たとえ同じ学年になろうと永遠に追いつけない。
遠くでまた、雷が鳴る。
彼は空の向こうに笑みを放る。その横顔に、何かを問うてみたくなる。
雨がぱらつき始める。
彼は歩き出すのを、僕は自然と追っていた。
- 4 -
廊下に出た彼はどこかに向かっていく。
「なんだ、ついてくるのか」
「たまたまだよ」
廊下の奥にある、人目に付きにくい一角。部屋の大きさがそぐわないために生まれたちぐはぐなスペースだった。
「茶倉の話に惹かれるんだ」
「僕に興味を持つなんて、森も変わってるな」
「勿論、話すのが嫌なら断ってもいいんだぜ?」
茶倉は僕の目をじっとみた。何かを見透かされているようで、いたたまれなかった。
- 5 -
「森。お前なら、どう訳す」
他愛ない会話の流れに沿った質問に違いないのに、彼が言うと、何か裏の真意があるのでは、と勘繰ってしまう。不正解を吐き出したくなくて、暫し黙考。先程までの遠雷は、随分と近くなって、腹に響いた。
「“あなたの正解が知りたい”」
なんとなく、そう口にしていた。
相手が望むなら、死んでもいいと思ったのだろうか。叶わなかったのは真実愛していなかったからだと、自責するのだろうか。
- 6 -
「森は狡いな」
「え?」
「僕と同じ」
瞬間、カッと雷が光って、彼の表情は逆光になってしまった。
「あの人の正解が知りたかった。僕の正解を考えず、人任せにして。あの人を尊重した気になって、それが愛だと思ってさ」
僕では俄かには想像もつかない、大人の世界の話だ。これが半年の差だとしたら、あまりにも大きい。
「それは、間違いだったって?」
「授業で答えたろう」
茶倉はまた、空を見て笑った。
- 7 -
“生きて”
茶倉の言葉が頭から離れない。
帰宅して、雨も、雷も、遠ざかった真夜中。
ずっとずっと頭から離れない。
翌朝、教室に入って、親友の金子と挨拶を交わしても、頭から離れない。
心配する金子に、お前ならどう訳すか聞いてみた。
「そんなの『愛してる』に決まってる」
「そのまんまじゃないか」
「そのまんまじゃないと、伝わらないだろ?」
金子は朝日の中で、気ままな猫のように大きく伸びをした。
- 8 -
そのまんまじゃないと伝わらない。
確かにそうだ。
でも「アイラヴユー」を「僕はあなたが好きです」にするだけでは芸がない気もする。
考えていると、言葉が閃いた。
『理由は分からないんだけど、僕は君から目が離せられないんだ。親友になれたらいいんだけど?』
「ま、いいか?」と思い、これを伝えに茶倉の元へ向かった。
あと、先生には僕訳の「君にラヴリー! これが僕の正直な気持ちです」と答えるつもりだ。
- 完 -
作品情報
漱石さんに物申すアイラヴユーの訳し方
#21285
- リレー期間
-
2年6ヶ月