漱石さんに物申すアイラヴユーの訳し方

「夏目漱石はアイラヴユーを月が綺麗ですね、と訳したそうですが、皆さんだったらどう訳しますか?」 先生が言った。 みんな難しい顔をして、一様に考え込み出す。 風が窓を叩いた。春の雷雨がすぐそこまでやってきている。 「先生、そんなの簡単さ。」 僕の右隣の左手がすっと伸びた。 「はい、茶倉くん。では聞いてみましょう。」 「生きて。だろ。」 彼が言うには重すぎる言葉だ。 遠雷がひとつ轟いた。

駒子

10年前

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茶倉陵は大切な人を失ったばかり。その人と入水自殺を図り、片方だけが死んでしまったらしい。 「なあ茶倉」 休み時間に茶倉に声を掛ける。 「なんだ、森」 「さっきの和訳……よく思い付いたな」 聞けなかった。アイラヴユーを生きてと訳した理由を。あの事件と関係があるのだろうか。 「別に。森より兄さんだから当然さ」 「兄さんって、僕より六月早生まれなだけじゃないか」 「変わるのさ。六月の差は」

ゆりあ

10年前

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彼の言葉の真意が掴めず、思わず言葉を失くす。新学期を迎えた教室内は一層賑やかで、彼の存在をより異質なものにしていた。 「死んでもいい」 彼が呟いた。 周りの喧騒と、僕らを包む空気は交わらない。 「……って、訳したやつもいたな」 「それ……誰の話?」 「どこかの文豪さ」 窓を小さく弾く雨音が聞こえ始めた。折角咲いた桜も散るんだなと、頭の片隅で思った。 僕は、彼の事を何も知らない。

おちび

10年前

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僕、あるいは僕の学年の皆が知る、彼についてのたったひとつのこと。 彼は、事件のあと長く入院していて留年した。僕らからすれば、彼は一学年分先輩だ。 尤も、彼は十二月生、僕は六月生。けれどその半年は、たとえ同じ学年になろうと永遠に追いつけない。 遠くでまた、雷が鳴る。 彼は空の向こうに笑みを放る。その横顔に、何かを問うてみたくなる。 雨がぱらつき始める。 彼は歩き出すのを、僕は自然と追っていた。

10年前

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廊下に出た彼はどこかに向かっていく。 「なんだ、ついてくるのか」 「たまたまだよ」 廊下の奥にある、人目に付きにくい一角。部屋の大きさがそぐわないために生まれたちぐはぐなスペースだった。 「茶倉の話に惹かれるんだ」 「僕に興味を持つなんて、森も変わってるな」 「勿論、話すのが嫌なら断ってもいいんだぜ?」 茶倉は僕の目をじっとみた。何かを見透かされているようで、いたたまれなかった。

aoto

10年前

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「森。お前なら、どう訳す」 他愛ない会話の流れに沿った質問に違いないのに、彼が言うと、何か裏の真意があるのでは、と勘繰ってしまう。不正解を吐き出したくなくて、暫し黙考。先程までの遠雷は、随分と近くなって、腹に響いた。 「“あなたの正解が知りたい”」 なんとなく、そう口にしていた。 相手が望むなら、死んでもいいと思ったのだろうか。叶わなかったのは真実愛していなかったからだと、自責するのだろうか。

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「森は狡いな」 「え?」 「僕と同じ」 瞬間、カッと雷が光って、彼の表情は逆光になってしまった。 「あの人の正解が知りたかった。僕の正解を考えず、人任せにして。あの人を尊重した気になって、それが愛だと思ってさ」 僕では俄かには想像もつかない、大人の世界の話だ。これが半年の差だとしたら、あまりにも大きい。 「それは、間違いだったって?」 「授業で答えたろう」 茶倉はまた、空を見て笑った。

けあき

8年前

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“生きて” 茶倉の言葉が頭から離れない。 帰宅して、雨も、雷も、遠ざかった真夜中。 ずっとずっと頭から離れない。 翌朝、教室に入って、親友の金子と挨拶を交わしても、頭から離れない。 心配する金子に、お前ならどう訳すか聞いてみた。 「そんなの『愛してる』に決まってる」 「そのまんまじゃないか」 「そのまんまじゃないと、伝わらないだろ?」 金子は朝日の中で、気ままな猫のように大きく伸びをした。

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そのまんまじゃないと伝わらない。 確かにそうだ。 でも「アイラヴユー」を「僕はあなたが好きです」にするだけでは芸がない気もする。 考えていると、言葉が閃いた。 『理由は分からないんだけど、僕は君から目が離せられないんだ。親友になれたらいいんだけど?』 「ま、いいか?」と思い、これを伝えに茶倉の元へ向かった。 あと、先生には僕訳の「君にラヴリー! これが僕の正直な気持ちです」と答えるつもりだ。

- 完 -