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鬼と藤

咲き乱れる藤が、花房を垂れるその下に、あれは独り居りました。
見事な緋色の衣を被いておりましたのは、糸のような時雨が、さらさらと落ちていたからでございましょう。衣を掲げるその腕の合間を、通り掛け、何の気なしに覗いたわたくしは、はっと息を呑みました。
艶やかな衣からの連想に反して、あれは女ではございませんでした。黒髪は短く、面は白く。伏せた目尻には、朱色が一刷毛。
それは、まさしく

━━━━鬼

みかよ
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平生なら鬼の持つ狂気に恐れおののき、逃げるように立ち去るのでしょうが、わたくしは一歩たりとも足を踏み出すことが適わないでいました。
何故なら、その時のわたくしが恐れたのは、鬼の放つやんごとなき美しさに対してだったのでございます。藤を背景に、あれはわたくしの心を掴んでしまいました。それは恋慕や懸想といった浮ついたものなどではなく、言うならば畏敬のような何かでした。

わたくしはたまらず踞ったのです。

aoto
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時雨の裾野に隠れられるはずもなく、あれはわたくしの存在に気付いているはずでした。
しかしまるで蜂が花に戯れることが当たり前のように、鬼はわたくしの眼差しを流したのです。
そして右手をふと挙げ、藤を一房撫ぜました。それはまるで愛撫のようでもあり母が子を心配する掌のようにも見えました。

けれど、その次の瞬間にそれは無情にも藤を握り潰したのでした。
はらはらと、小さな紫の涙がその手から零れ落ちました。

いのり
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は、と思わず声を漏らしたわたくしをちらとも見ずに、鬼は紫の花弁をはらはらと打ち払い、そして扇を開いて、その薄青の紙の上に、いくつか、涙を閉じ込めたのでございます。

「無情、無常よな。こうして我が触れるまで、美しく咲き誇っていたものを」

そうして扇に載せた紫を、ほうと散らしては受け止めて、ころころと転がしてやりながら舞うのでした。

「去ね、人の子。鬼王に捧ぐ藤の舞、そなたまで囚われてしまうぞ」

古都の三日月
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朱を刷(は)いた細い目が、流しざまにわたくしを捉えます。動かないわたくしを見て鬼はハ、と笑いました。

「腰でも抜けたか、人の子よ。じき黄昏が来るぞ」

それでもわたくしはぼうっとして、打ちしだかれてはらはらと降りやまぬ藤のおぼろに、思わず手を伸ばしました。刹那、薄青い扇がひるがえります。うす水と藤紫との噎せ返るような色彩が静まると、そこにはまた恐ろしく美しい光景がありました。

鬼王に捧ぐ、舞。

虹のコヨーテ
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右の手が辿るは深淵。左の手が描くは夢幻。
うす水の一閃が示すは虚無。

それは、この世の全てを知り尽くし、諸行無常を髄まで悟った所作でした。
一房残っていた藤に口づけて扇を翻せば、唸る風が緋衣を持ち上げて、闇滔々と。

左の足が躙るは蜉蝣。右の足が与うは断罪。うす水の一閃が軌すは真実。

散る紫は消え、舞の終に黙する世界。
その時にはわたくしの命はもう、目を見開いたまま潰えていたのでしょう。

Face noname
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永久か須臾か。
耳を刺す静寂に耐えながら、見てはならぬものを見た酬いなのだと覚りました。
それでも心は、稀有な恩寵を賜ったかのように満たされておりました。もし時が返っても、わたくしは再び同じ道の辺で、あれの姿を認めるでしょう。

「哀れな人の子」
僅かに残った意識に鬼の声が響いていました。奇妙なほどに和ぎ、まるであの、藤を撫でた掌の如き慈愛の色さえ帯びて。
「せめて魂だけでも、この藤とともに在れ」

misato
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そうしてわたくしは、今こうして咲いているのでございます。
人々はわたくしを美しいと言い、熱を込めた眼差しを送ります。
けれども、わたくしがこうべを垂れるその先の、本当の美しいものに気付く者はおりません。
美しいものは藤を愛撫し、その手で握り潰してゆきます。
幸いにもわたくしはまだその寵愛と殺戮の矛先にはなっておりません。
けれども断末魔を上げながら散る藤たちを見ながら、明日は我が身と震えるのです。

Face 風上壱悟
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そしてとうとう、その日はやって参りました。
鬼はあの眼差しを寄越し、寵愛するように触れました。それらは紛れもなくわたくしに向けられたもの。余りの美しさに、ようよう恐れは消えました。
舞う、緋、朱、薄水。
嗚呼、どうしてかくも艶美で、儚く、残酷なのでせう?
最後の瞬間、鬼が口を開きました。

敢へ無しよ我鬼なりて
愛し藤隠れたまふをいかで止めむや

それはまるで、鬼が藤に応えるかのようなうたでした。

夏草 明
- 完 -