陽炎に揺れる黒っぽい板塀。耳鳴りにも似たセミ達の大合唱。熱せられた夏草と埃の匂い。踏みしめる砂利道の感触。 一年前の記憶が甦る。涌き上がってくる興奮と、わずかな不安。 春季たち一家は夏休みを利用して、自宅から2時間あまりのところにある、祖父母の家を訪れていた。一家の恒例行事である。 春季は祖父母を訪ねることが大好きだった。ただし、目的は祖父母に会うことではなくて、本当の目的は別にあった。
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それは"裏山探検"だ。 春季の祖父母の家は町外れの山の入り口にあり、背後は鬱蒼とした木々に覆われていた。そこに、同じ時期にやってくる従兄弟達と探検に出かけるのだ。
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去年の「成果」は、山道から少し外れた場所に湧き水を見つけたことだった。岩の隙間から細く落ちる水滴を両手で受け止めたときの、凛とした冷たさ。空の水筒を少しずつ満たしていったときの、コロコロと澄んだ音。夏の日差しの中、汗まみれで駆け回った春季たちの、文字通りそこはオアシスだった。
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「え?ヒロ兄ちゃん達来れなくなったの?」 「そうなのよぉ。夏風邪ひいちゃったみたいでね。で、兄弟で移し合いっこ」 「そうなんだ…」 「残念だったわねぇ。みんなもアンタに会いたがってたよ」 それだけ言うと、祖母は夕飯の準備に戻ってしまった。 「どうしようかな…」 心強い探検仲間が来れなくなってしまった。 山の中は宝箱であると同時に、お化け屋敷の様な危険もつまっている。 でも…。
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「もうすぐご飯よ」キッチンの奥から祖母の声が聞こえる。 「はーい」 春季はつまらなそうに答えた。祖父母の家はいつも夕飯が早いのだ。 ハンバーグ、唐揚げ、炊き込みごはん。好きなものがずらりと並んだ食卓を見ると、春季のふさいでいた気持ちもどこかへいってしまった。 「このキノコは裏山で採ってきたんだよ、おじいちゃんが」 炊き込みご飯を春季が美味しいと言うと、祖父は具のキノコを指差して言った。
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「キノコ、山にいっぱい生えてるの?」 春季は口いっぱいにほおばりながら尋ねた。 「今年はいつもよりたくさん生えてるみたいだ。本当はまだキノコの季節には早いんだけどな」 「へんなの」 「春季はとって食ったりしたらいかんぞ。中には毒を持つものもある」 「うん」
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チュンチュン。 チュンチュン。 翌朝、鳥の鳴き声で春季は目が覚めた。畳の部屋に射し込む朝日が眩しい。 鮭と納豆の朝ごはんをかきこむと、春季は外へ飛び出した。後ろから祖母の声が追いかける。 「水筒持ったかい」 「持った」 「あまり遠くへ行くんじゃないよ」 「はーい」 ペシッ、ペシッ。 長い木の枝を拾い、道端の岩や草を叩きながら歩くのがいつものやり方だ。すぐに裏山の入り口までたどり着いた。
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木々が道を覆い、ひんやりとした空気があたりを包んでいる。足元の草を枝で叩くと、夜の間にたまった水滴が葉から転げ落ちて、ポロポロと音をたてた。見上げると、太陽は枝の隙間を見つけては、そのあふれるエネルギーを地上まで届けていた。 春季は歩きながら手に持った枝をビュンビュンと振り回した。今日はこいつが唯一の相棒だ。
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「まずはあの湧き水まで行こう。」 春季は勇気を出すためにそうつぶやいた。昼間とはいえ、やっぱり誰もいない山は不気味だ。 確かあの大きな木を超えたところだったはず。春季は去年の記憶を辿りながら走り出した。 あれ? 間違えるはずはなかった。なにしろ裏山の入口から湧き水までは一本道なのだ。それなのに記憶とは全く異なる景色に、春季は混乱した。と同時に懐かしさを覚えた。そう、アソコだったのだ
- 完 -