雨は嫌いだ。 じめっとしていて蒸し暑くなるし、何よりも自分の不注意で本を濡らしてしまっては洒落にならない。 だから雨は嫌いだ。 そんな嫌いな雨の日だけど今日に限ってはとても良い一日だった。 ある日の六月。 梅雨入りの雨音が学校の図書室を満たしているなか私、草壁蘭はいつも通り図書委員としての仕事をしていた。
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しとしと 窓の外で降り続ける雨は本当にオノマトペ通りの音をたてているかの様に、元々静かな放課後の図書室をさらに静謐なものにしていく。 私は図書室のカウンターで店番ならぬ部屋番をしつつ、新しく買ってきた小説を読んでいる。 雨は嫌い。眼鏡は見辛くなるし、長い黒髪は濡れると中々乾かない。何より本が濡れてしまっては、お気に入りの名作も話題の傑作も読む気力は五割引というものだ。
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しとしと、しとしと。途切れることなく降る雨の音に、時折私がページをめくる音が重なる。ぱらり、ぱらり。辺りは心地良い静けさに満たされて…。 「あの」 本に夢中になりすぎた私は、他の利用者の存在に気付かなかった。遠慮がちな声をかけられ、それに対し大袈裟なほど飛び上がってしまう。 早鐘を打つように鼓動する胸を押さえながら、急いで声の主を探したけれど、 「あれ?」 誰も、いなかった。気の所為?まさか。
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「うう…」 唸り声が聞こえ、慌ててカウンターの表にまわると男の子が倒れていた。 「あの、大丈夫ですか」 幽霊ではなかったことにホッとして落ち着きを取り戻した私は、自分の頭が仄かに熱を持っていることに気付く。痛い。 あ、彼に頭突いたのか。 飛び上がった時、何かにぶつかった気がしたけれど、驚き過ぎて痛さを忘れていたようだ。 「これ…今日が返却だったので」 よろよろの男の子。白シャツが透けている。
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濡れているのだ。髪にも細かな水滴がついている。 もしかして──本も濡れた? 私は慌てて、男の子が鞄から出した本に目を向けた。 けれど本は無事だった。よく見れば、男の子の左手にはハンカチが握られていた。取り出す前に手を拭いたらしい。 本を濡らさないようにという気遣いは、当然のことのはずだけど案外できない人が多い。 一年生だろうか。またあどけなさを残す彼のその行為が妙に嬉しく、私は思わず微笑んだ。
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「本、好きなの?」 「え?」 あ、しまった。 目の前のきょとんとした顔をみて自分の失態に気づく。普段ならこんな風に自分から雑談を持ちかけるなんてしないのに、ちょっと本を大切にしてくれる人を見つけただけでこんな風に嬉しくなって喋りかけてしまうなんて …雨で普段より人が寄り付かないから余計に誰か来て嬉しくなってしまったのかも ずっと黙っていると誰かと話したくなるものだ、私はコホンと一つ咳をした
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「それ、気遣ってくれたんでしょ、嬉しいよ」 「読もうとした本が濡れていたら、がっかりしますから。雨は嫌ですね」 「そうね」 飛び上がりたくなるほど気分が良くなった。同じことを彼も考えていたなんて。 「良かったです。先輩…ですよね。先輩も本が大好きなんですね」 爽やかな笑みにキュンときた。 会話は自然と弾んでいく。ひと気のない分、自由な心地になって、いつもより声が張っていく。 雨も素敵だね。
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「きょうは雨だね」 「どうしたの? 嬉しそうな顔して。雨はお外で遊べないから嫌って言ってたじゃない」 そう言いながら朝食の後片付けをしていると、小さな手のひらがエプロンの裾を掴んだ。 「パパがね、ママに絵本よんでもらったらいいよって」 一番お気に入りの絵本の表紙を一生懸命見せてくる娘がとても愛らしい。 お皿洗いの手を止めて微笑む。 「大事な絵本が濡れちゃうから、後でゆっくり読んであげるね」
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「──こうして二人は幸せにっと、寝ちゃったか」 私は、まだしとしと降る雨を窓越しに見る。 窓辺には家族の写真立てと中身がしっかり詰まってる本棚。 「そろそろ帰ってくるかな?」 棚の上にある時計を見ながら呟くと、玄関から鍵を開ける音。 拭うタオルを渡すため玄関へ。 気遣い屋のあの人が大切そうに濡れた手を拭いて私をなでてくれるまであと少し。
- 完 -