我輩は猫である。 ただの猫ではないのだ。長〜い長〜い時を生きたエライ猫なのだ。 今の我輩はニンゲンに飼われてやっておる。ミカという娘が我輩を捨て猫と勘違いして拾ったのだ。全く失礼な話である。でも毎日楽できるので、飼われるのもまあ悪くない。 我輩にはニンゲンというものがよく理解出来ぬ。特に今のミカ、じぇーけーと呼ばれる段階は分からぬ。今日もまた、ミカはわんわん泣いておる。 「またフラれた…」
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ミカがそう言って我輩の元に来るのは、二月に一度ほどの恒例行事である。 我輩をきつく抱きしめ、頬ずりし、モフモフしながら、彼女は悲しげに叫ぶのだ。 「可愛くなりたいよぉ、彼氏がほしいよぉ~」 ねえねえ、と我輩の体を揺さぶりながら、ミカは声を上げて泣く。 泣き続ける。 困ったものだ。 ねえねえと言われても、長~い長~い時を生きたエライ猫にも、できることとできないことがある。 我輩は思案した。
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ミカは何故可愛くなりたがるのか? 彼氏を欲しがるのか? それはモデルなんかが側にいたら話は別だがミカはそれなりにかわ…い…まぁそれはどうでもいい。 そんなことより彼氏なんかいなくても我輩がいるではないか。 ミカは少し贅沢なのだ。 あれ?これではニンゲンに依存しているようだ。このままではダメだな〜 とか考えるくせに、ミカの腕に抱かれてウトウトする「日常」は気に入っているのだ。
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それから二ヶ月、平和な日が続いた。さらに二ヶ月、平和な日が続いた。最近、ミカは何かを書いている。四角いマスの並んだ紙が丸っこい文字で埋まっては積み重なってゆく。まさか我輩との日々を記録しているのかと覗き込んだ紙にはツマラナイ事が書いてあった。 最近、何かがおかしい ミカの腕の中で目が覚めた。気持ちよく眠っていたのに起こされた。まったくミカはわがままだなぁ 「私、春から東京で一人暮らしするの」
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我輩に向かって言ったであろうその言葉を、そうかそうか、それは結構……と流した。 否、流せない。 ……なんだって? 東京で一人暮らし? ふむ。それがミカにできるのかどうか。 どうせまた他の誰かに泣きつくのがオチだろうに。 我輩とはここまで、そういう訳か。ちくりと、胸が痛んだ。 何故だ? 我輩は飼い猫ではない。ニンゲンなんざくだらない。 ミカだって、実際はどうでもーーどうでも、いい、はず、なのだ。
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我輩は長〜い長〜い時を生きたエライ猫なのだから、ミカなど居なくとも一匹で生きていける、筈なのだ。 一匹になった所で、何も困りはしないのだ。 しかし、この胸の痛みは収まらぬまま、寧ろ激しくなっていくようであった。 「一緒に行きたいけれど、向こうの家は動物ダメなのよ、だから……」 ……分かっている。 我輩は、また一匹になるのだろう? 「あっ!」 我輩は、開いていた窓から外へと駆け出していた。
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我輩は走った。いつまでもどこまでも走った。 我輩は長〜い長〜い時を生きてきたエライ猫なのだ。この世にわからないことなどひとつもない。 だがしかし…… ただ一つだけ、わからないことがある。 いま我輩の心の中にあること気持ちは何なのだろう? 長〜い長〜い時の中でも、こんな思いは一度もしたことがなかったのである。 気付けば我輩はとある河川敷に来ていた。其処は我輩がミカに拾われたあの場所だった。
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── ニィニィ 長〜い長〜い時の始めの頃を思い出していた。 あれは我輩がまだ普通の仔猫だった頃。 我輩は兄妹と供に箱に押し込まれ此処に捨てられた。 ある日、鴉に襲われ兄妹と逸れた我輩は一人の老紳士に拾われた。 我輩は心静かな老紳士を師と仰ぎ、師の家で育った。 やがて、老師に孫娘が生まれた頃、青年となった我輩は世界見聞の旅に出た。 長〜い長〜い旅の末、我輩は再び此処に帰り、ミカと出会ったのだ。
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叢から道を伺った。 逡巡とした胸の内を収められず、胴の長いノリモノに紛れ込んで2ヶ月。 我輩は長〜い長〜い時を生きたエライ猫なのだから、一匹になったところで困らないが、ミカには我輩が必要であろう。 かくして我輩が路傍生活をしながらミカを見守ってやっている次第である。 今、一層かわい…否、大人らしくなったミカの隣には雄のニンゲンがいる。 時折我輩に伸びる手の片方には威嚇を欠かさない近頃である。
- 完 -