心巣という名の喫茶店

それは木曜日の出来事。 特に予定もないのに有給を使ってしまった私は、まくらを抱きしめながら天井を眺めていた。 「あーあ、なんだかなぁ」 はだけた服に手を突っ込んで、胸元を掻く。女らしからぬ仕草はすでに惰性となっていた。 朝御飯には納豆と沢庵とコーヒーを。 そんなチョイスを好む私にも、そろそろ出会いがあってもよいのではなかろうか? 「よし、何処か行こう」 こうして、不思議な木曜日が始まった。

raibu

11年前

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カフェインのおかげで頭は爽快に冴えていたけれど、身体は連日の勤務で少し疲れていた。 そうだ、エステとかマッサージとかに行こう。リラクゼーションを求めて。 ラッシュの時間を過ぎた駅前を、すっぴんにTシャツにジーンズ、ラフな格好でぶらつく。出会いを求めるには素が過ぎるかもしれないけれど、素を求めてくれるような人と出会えれば。 それが一番心地よいはずだ。 ふと、見覚えのない店が目に入った。

11年前

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古い扉を引くと、ぎぃという音がした。中にはレトロで上品な空間が広がっていた。 「いらっしゃい」静かで優し気な声が聞こえた。 そこには、静かに微笑む男性がいた。年は30代前半くらいだろうか。背は高く、体はすらっとしており、片手にコーヒーを持っている姿がなんとも様になっていた。 「珍しいね、お客さんが来るなんて」 彼はコーヒーを置くと続けた。 「君は何に呼ばれてきたのかな?」 「え?」 「このお店はね

asagi

11年前

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心に何かを求める人が、その何かに引き寄せられる魔法の喫茶店なのさ」 男性が爽やかな笑顔で余りにも唐突な台詞を言ったものだから、私は思わずキョトンとなってしまった。何て返せばいいんだろ…。 「…ぁ、…えっと…」 私がしどろもどろでいると、男性は今度は激しく吹き出し笑い出した。 「ぷっはは、ごめんごめん。一見さんだったから、ちょっとからかいました。いらっしゃい、ようこそ喫茶心巣へ」 「こころ…ス?」

真月乃

10年前

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「そう、心巣。君には今、欲しいものがあるんじゃないかな?」 「欲しいもの…?」 服や化粧品には困っていない。困っているように見えるかもしれないけれど。 「お金で買えないような欲しいものが」 ギクリとした。男性は私の目を真っ直ぐとらえる。 私が思い当たるそれを言おうか迷っていると、男性は「まあ、コーヒーでもどうぞ」と微笑んだ。 どうやらこの喫茶店のコーヒーはメニューではないらしい。

chika

10年前

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普段から瓶詰めの粉コーヒーとお湯を適当に混ぜ合わせる飲み方しかしない私。味に無頓着だからこそ、選択肢がないのは難儀でしかなくて。 「あ、あの私できればアメリカンが…」 とは言ってみたが、男性はあっという間にコーヒーを出してくる。見た限りは深煎りで、余韻が舌に重そうだ。私、こんなの求めてないのに…そう思ってしぶしぶ口を付けたけど。 なにこれ、ドンピシャ! 「見た目より素直な味、お口に合ったかな?」

おやぶん

10年前

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香りは強いのにあっさりしてまろやかで、甘いものも欲しくなってきた。あれがいいな。 と、男性がすっと差し出したお皿に乗っていたのは、温泉まんじゅう。 「なんでわかったんですか?私が今食べたかったもの···」 私がきょとんと尋ねると、男性はくすくすと笑った。 「あなたは本来素直な方のようですからね。人間も素直なのが一番ですよ。あなたが欲しいと思ったものは本当に欲しいものですか?」

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本当に欲しいかと問われれば、今のところ、焦るほど困ってはいないのが実情だ。 元々、一人でいても寂しくならない質だし、女っ気を捨てて、惰性を貪るのは心地よい。 昔付き合ってみた男は、ヤらせろしか口にしなかった。媚びるのも得意ではない私は、彼との付き合いが酷くつまらなかった。ソレについても、彼がそこまで執着するほどに気持ちいいものだとは思わなかった。 今の生活に、要らないといえば、要らないのだ。でも、

aoto

9年前

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愛し愛されたい 誰かを好きになりたい 誰かに好きでいてほしい ただ… 追うのも追われるのもイヤだ ほれたはれたの騒ぎも大嫌い もっと自然なふれあいがいい 語らいとなごみあいからくる 愛らしい結びつき それが私の望み この答えを聞いても、この店のマスターは笑わないだろうか? 不安だけど、美味しいコーヒーとお菓子を出してくれたお礼として答えよう。 「あのね、マスター! 私はね…」

- 完 -