ナボタスの海へ
──ずっと一緒にいたい。
雨音に吸い込まれてしまいそうな声で、あの日の君は呟いた。どうして僕は、何もしてあげられなかったんだろう。
初めて出会った日の彼女は、店の軒下で傘を閉じて雨を眺めていた。傘があるのに雨宿りなんて変な子だな、と当時は思うだけだった。
ずぶ濡れのまま辿り着いた店のどこにも、君の姿は見えない。
虚ろな視界の端に傘立てが映る。
薄い紫色をした、君の傘があった。
- 1 -
あの日の君は、僕の心の中で永遠に響いて、輝いている。薄桃色の小さな唇に、抱えたら崩れそうな肩。俯いて何かを見ているだろうその視線の先には、何もないのかもしれない。
僕は彼女に話しかけることはできなかった。自分の穢れを知っているし、他の誰かを穢したくなかったから。
「ねえ。雨粒はどうして堕ちるの?」
君の言葉には、狼狽えるばかり。瞳には僕。
店主は言った。
「あの嬢ちゃんから手紙を預かっとる」
- 2 -
店主の言葉が、激しい雨音を突き抜けて僕の鼓膜に届いた。
差し出されたのは、少し湿った、けれど丁寧に折られた白い封筒だった。受け取る僕の指先が、微かに震える。
彼女がもうここにはいないこと、そして、僕に言葉を残してくれたこと。その事実が、行き場をなくしていた僕の心に冷たい楔を打ち込むようだった。
僕は震える手で封を切り、中にあった便箋を広げた。
- 3 -
あまつぶのように おちてみたかった
きたない は きれい
なんにもさわれないくらいなら
きれい なんか なりたくなかった
かえるひがきました
おげんきで さようなら
彼女らしい、優しい字だった。
『雨粒はどうして堕ちるの?』
あの日の言葉が、今になって胸を刺す。
僕は酷いやつだ。
進み方だけ見せておいて、帰り方は伝えなかったのだから。
- 4 -
濡れた便箋を抱きしめる。硝子と、かすかな薔薇の香りが鼻腔をくすぐった。
フラスコの中にも雨は降っていたのかな。
軒先から落ちた雨粒に手を伸ばす。掌の中で弾ける水飛沫。何も残らないじゃないか。
紫色の傘を手にしてみる。傘は雨を無惨に殺す。君は雨粒を憐れんだのかもしれない。
傷ついてもいい。
汚れてもいい。
商品でなくなってもいい。
触られたい。
そうやって、君は自分として生きたかったんだね。
- 5 -
生きるを描く。紫色の傘は
赤がくすみそこに光が差した色だった
人は忘れる習慣があるから生きられる
でも、思い出を担ぐには歳が過ぎた
だから、そうするしか無かった
愛していたから..
あの日、その前
ずっとずっとずーっと前から
愛してたから....。
- 6 -
閉じたままの傘を手に街を彷徨い、彼女の気配を探す。降り止まぬ雨に濡れながら、僕は彼女のことを何も知らないことに愕然とした。
記憶の中の彼女はいつもあの店にいる。それは切り取られた人生の断片に過ぎないのに。
その先に踏み込む勇気がなかった。ずっと愛していたのに。
ふと彼女の言葉が蘇る。
『ナボタスの海を一緒に見たい。きれいではないけど——』
その海を僕は知らない。君はそこに帰ったのだろうか。
- 7 -
便箋を買うのは初めてだった。
隣町にある古い文具店。見上げるくらい大きな棚で精倒に並べられた数多の便箋。僕は白い無地の便箋を選んだ。
家に帰ると食事も摂らず、朝が来るまで眼前の紙に向き合った。そうして、彼女への思いの丈を、僕は思うが儘に認めた。
不甲斐ない自分には、今更その資格なんて無いかもしれない。
けれど。
早朝、あの店の軒下。
彼女に宛てた手紙を、ライターの火がゆっくりと曇天へ届けた。
- 8 -
燻っていた想いが煤をも残さず昇り切ると、雨粒が堕ちてきた。透明がばらんばらんとトタン屋根を打ち付けるので、負けない位に笑って天を仰いだ。
畔道を転がり落ちて、泥を被って、ずぶ濡れになって。切望した自由へ、君を連れて行ってあげられたならと。
もう逢えないのだとわかっていた。込み上げてくるものに堪らなくなって、雨が沁み込んで来るのを感じていた。
雲海を超え、いつの日か旅に出ようと思う。薄紫の傘と——
- 完 -
作品情報
ナボタスの海へ
#63087
- リレー期間
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3ヶ月