境界線
私は誰だろう。
私はどこに向かって歩いているのだろう。
Tシャツにジーパンという格好で何をしようとしていたのか。
名前・住所・職業、そういった事も全て思い出せない。
鞄も持っておらず、何か手がかりはないかとジーパンのポケットを探るが、入っていたのは、鍵が一本だけだった。
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鍵が一本あっても開けるものがなければ意味がない。
ジーパンのポケットに鍵を入れ、立ち止まって周りを見渡してみる。
あるのはなにかが植えられた畑と、今にも壊れそうな空き家と、遠くに見える山だけで、人もいなそうな田舎だった。
仕方がなく私は歩き続けることにした。
- 2 -
舗装のされていない田舎道を、私の影と共にどれだけ歩いてきただろうか。
思えば、太陽がずっと西の方角にある気がする。
茜色の光が支配するこの時間帯に、閉じ込められてしまったようで、気味悪く思えてきた。
いや、そもそもこの場所や自分のことさえよくわかっていないのだ。
太陽が沈まぬことくらい、大したことないだろう。
動悸を抑え、歩みを進める。
- 3 -
無性に誰か、人に会いたい。そう思った。
独りで抱えきれなくなった不安を分かち合う誰か。できれば友好的な。
歩っても歩っても、景色は殆ど変わらない。随分前から喉が渇いていた。山の麓へ辿り着けば、水にもありつけるだろう。幸いここでは陽の沈むこともないらしい。夜道を行くより幾分安全かも知れなかった。
風も、鳥の声も無い。
無い無い尽くしだ。
- 4 -
どれくらい歩いただろうか。
山道の入り口付近に、昭和に取り残されたような小さな商店がぽつんと建っていた。
誰かいるかもしれないと、僅かな望みを胸にガラス戸を開ける。
しかし案の定、中はもぬけの殻で誰もいない。
(喉、乾いたな……)
商店の外にある蛇口を捻ると、びしゃびしゃと音を立てながら冷たい水が出た。
安全かどうかもわからない水だが、とりあえずそれを飲んで山へ向かうことにした。
- 5 -
小さな山だった。登るにつれ道幅が狭く岩肌は細かくなっている。遠近を強調して、麓から見上げると遠くのものがさらに遠くに見えるよう錯覚するような作りがされているのだった。
向こうの麓には町が広がり、列車が走っていた。人影も見える。
しかしおかしなことに、列車は小さな円を周回するだけで留まることはなく(もっとも留まる意味もないほど小さな円だったのだが)、人影も、なにひとつ、ぴくりとも動いていない。
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このまま麓に向かっても、辿り着けそうな気がしなかった。
何というか、立体的な距離感が感じられない。気づいた場所といい、山といい、ここは普通の世界とは明らかに違う。
まるで絵画の中を彷徨っているようだ。そう思うと、空の色や街の灯りが、油絵のように見えてきた。
私は段々怖くなり、走り出した。やなり麓は一向に近づかない。
恐怖で足がもつれて転倒したとき、ポケットから鍵が飛び出して目の前に落ちた。
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落ちた鍵は地面のキャンバスをカチリと叩き、甲高い音を響かせた。その衝撃で空間に亀裂が入り、目の前の景色が絵の具のようにドロリと崩れ落ちていく。
壊れた世界の隙間から現れたのは、真っ白な部屋の壁と、小さな鍵穴のついた木製のドアだった。
(そうか、ここから出ればいいのか)
震える手で鍵を拾い上げ、穴に差し込んで回す。重い金属音が鳴り、扉が開いた。
- 8 -
眩しい光に包まれたかと思うと、私はいつの間にか、木製の机に突っ伏していた。
「館長、起きてくださいよ。美術のイベント続きで疲れてるのも分かりますけどね、仕事なんですから…」
頭上から説教垂れる若者の言葉を右から左に聞き流し、私は目だけを彷徨わせた。
「ちょっと館長?大丈夫ですか?」
広い美術館で、彼の声だけがこだました。
- 完 -
作品情報
境界線
#54660
- リレー期間
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5年