居酒屋『在り処』のおもひで
生まれ続ける、どこか懐かしく小気味良い音と匂いに、私は意識の目を覚ました。
何処かの居酒屋だろうか。いつから此処にいるのか。
椅子の温かさから、意識の焦点が合う以前からこうして居た気がする。
狭いながらも、古く温かい時間が染み込んだ色をした木の壁の匂いに、心が落ち着く。
ふいに、音が止む。
「起きたかい」
奥から現れた割烹着の親父さんだ。
「あんたが…死ぬ前に食べたかったものは、なんだい」
- 1 -
「揚げ出し豆腐です。あと鯖の味噌煮も。学生の頃は毎日のように食べていました。当時の僕は輝いていたんだと思います」
自分で言って恥ずかしくなってきたが事実だし、正直にでた言葉がそうだったから。
「ここはねえ、あちらへ向かうまえのひとが必ず通る居酒屋『在り処』さ。ついこないだ、大きな戦争と災害があったろ。だからここはもうじき大忙しさ」
おばちゃんが、ネギたっぷりの揚げ出し豆腐と香ばしい鯖を持ってきた。
- 2 -
「そうなんですね」
驚きはなかった。暖かい羊水に守られているかのような、不思議な心地がする。
それが、僕を酷く安心させた。
おばちゃんからお盆を受け取り、手を合わせる。箸で料理を口に運べば、あの頃の味がした。
「すみません」
いつ来たのか、それとも最初からいたのか、どこからか女性の声が聞こえた。
「お好み焼きをください」
彼女の前に、酷く薄いお好み焼きが置かれた。
- 3 -
嗚呼、あんなに薄っぺらいの、すぐ平らげてしまうよ。僕はそう思って、一瞬どこかが疼いたのを不思議に思った。
一人掛けの女の人は料理を持って来たおばちゃんと談笑している。
「色紙切りのイカに、固くて小さなとうもろこし。どうして分かったの、私の小学校の給食」
「いやだねえ。そんなの当たり前じゃないか」
和やかな雰囲気に箸が止まっていた僕は向かいの椅子を引く音に意識を戻された。
「ここ、相席いいかな」
- 4 -
「どうぞ」僕が答えた相手は、戦闘服を来た兵隊だった。欧米系の人だが、なぜか言葉は通じた。
兵隊は親父さんに「ボルシチをくれ」と告げた。酷く疲れているようだった。
「大丈夫ですか?」僕は声をかけた。兵隊は僕を見て「あんまり大丈夫じゃないな」と弱々しく笑った。
やがてボルシチが運ばれてきた。彼は一口食べ、ああ、ナターシャの味だ、と呟いた。そしてその暖かさを確かめるように、両手で器を包みこんだ。
- 5 -
食べ終えた兵隊は「ごちそうさま」と親父さんに声をかけ、早々に立ち上がった。
「もう行くんですか?」
僕が聞くと、彼は気まずそうな顔をして店を出て行った。
その後も兵隊が何人か相席に現れたが、料理を食べ終えると、そそくさと席を立ってしまった。
やがて相席が途絶え、カウンターにいた女性が「いいかしら」と僕の向かいに座った。
彼女はため息をついて言った。
「私ね、さっきの兵隊さんたちに殺されたの」
- 6 -
おばちゃんが話していた「戦争と災害」のことを思い出す。
僕は返事にも、相槌にも詰まってしまう。どんな言葉も、彼女に対して不適切になる気がした。
「四人がかりで念入りに、ね。ねえ、これをいい気味だと思うのは酷いことかしら?」
「在り処」の後に向かう場所のことを、彼女は気にかけているようだった。
「わかりません」
「そうよね。聞いてくれてありがとう」
彼女は食べ残したお好み焼きを僕に分けてくれた。
- 7 -
差し出されたお好み焼きを、僕は静かに口へ運んだ。
色紙切りのイカの硬い食感と、薄っぺらい生地。それはひどく素朴で、不器用に生きた誰かの温もりがした。彼女の抱える割り切れない憎しみも、あの異国の兵隊が流した望郷の涙も、この『在り処』では等しく、最後の記憶として静かに溶けていく。
自分の頼んだ定食と、彼女から受け取った思いをすべて平らげ、僕はゆっくりと席を立った。
「ごちそうさま」
- 8 -
その時、背後で声が響いた。
「おかあさん!」
振り向くと小さな子どもがいた。
お好み焼きの女性を嬉しそうに見ている。
「やめて!」
駆け寄ろうとした子を、彼女は突き飛ばした。
「|私に子どもはいないの《・・・・・・・・・・》!」
彼女は両腕できつく、自身を包む。
女性は泣き続けている。
尻餅ついて固まった子どもに声をかけたのは、やはり親父さんだった。
相変わらず無愛想、でも穏やかな声で問う。
「あんたは、何が食べたい?」
- 完 -
作品情報
居酒屋『在り処』のおもひで
#35683
- リレー期間
-
9年5ヶ月