煙草をふかしながら一枚の用紙を渡す男の顔に、私は何処か見覚えがあった。 「何処かでお会いしたことありませんかね?」 「いえ、初対面ですよ」 さらりとそう言った男。だが彼が一瞬動揺したのを私は見逃さなかった。 ──やはり彼は、何を隠しているのだろう。それはこの状況にも関係しているのだろう。 私はシワのついてしまった用紙を伸ばした。 『──記憶喪失者の皆様へ』 。
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その紙にはとある病院の名前と、このような事が書かれていた。 私は自ら望んで記憶を消したということ。 記憶を消す前の自分の希望により、何の記憶を消したのかは通知されないということ。 処置が完了するまでは施設のスタッフ──相変わらず隣で煙草をふかしている男が、私の生活のサポートをしてくれるということ。 「じゃ、そういうことで。病院の規定で俺の本名は教えられませんが……まあ、適当に呼んでください」
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「適当に」 私は男の言葉を繰り返す。知らない言葉を口にするように。 「私は」 それじゃあ、と腰を上げる男に声を掛ける。 「あなたに関する記憶を消したのかしら」 男は煙草を左手に持ち替え、深く深く煙を吸い、そして吐いた。その間、私も男も目は合い続けていた。 「さあ、初対面ですし」 くぐもった音が煙と共に発せられる。 「それでも、私にとってあなたは大切な存在な気がする」 「…………さあ」
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男が帰ってから一時間程後、件の病院から携帯に電話が入った。鞄に入っていたから、恐らく私の物なのだろう。どうやら目を離した隙に病室から姿を消したと大騒ぎになっているらしい。私は当然、男のことを説明することもできたのに、それをせず、ただただ「相済みません」と応え、受話器を置いた。 取るべき行動はひとつ。 病院へ戻るべきだろう。そうすれば何かわかるはずだ。 煙草の臭いが移った服は着替えよう。
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あの男はまるで病院スタッフかのように暗に装っていたけれど、今の病院からの慌てた連絡振りからみても、そうではない事が分かったからだ。 なので、煙草をふかす男との接触を病院に知られてはいけないのだと判断した。 昔見た海外ドラマ「X-File」の登場人物「シガーレットマン」のような「謎の男」が何者なのかは分からないけれど、私の味方なのは女の直感で分かった。 男は「この部屋は貴女の部屋です」と言っていた。
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知らない女の部屋があった。試しに、粗雑に置いてある椅子にそっと触れてみる。何も感じなかった。 私を案内した男はどこかへ行ってしまったようだった。何か手続きがあるのだろう。わたしは途方に暮れて、そのまま椅子に座った。 何気なく、椅子の下に触ると、何やら木ではない、紙の触感がした。驚いて椅子から立ち上がってみてみると、どうやら手紙が貼り付けられていた。 私は恐る恐る、手紙を開けてみた。
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これを読んでいるということは、君は記憶を失い、そして俺と会い、部屋に戻ってきた頃だろう。俺が誰なのか、今は重要じゃない。煙草の男とでも呼んでくれ。 君が消した記憶は俺自身ではない。消した記憶に、ただ俺が含まれていた、それだけのことだ。恋人でも夫でもない。君を取り巻く、一人に過ぎない。 一つ言っておく。何の記憶を消したのかを探ることだ。本末転倒に聞こえるかもしれないが、それが一番の近道だ。
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いよいよ訳が分からない。 この内容を直接告げず、隠しておいたのは何故?「さあ、初対面ですし」と呟いた男の顔が思い出される。 いや、当の男も記憶を消されているからだとしたら?…だとしても、それは前もって手紙に記したはずだ。違うだろう。 要するにこういうことだ。男は予め部屋に何らかのヒントとなる手紙を隠した。そして初対面を装い私に接触し、姿を消した。 一体なんのために? また、電話が鳴り出した。
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電話を繋ぐと、聞こえてきたのは先程の病院関係者の声だった。 「今、貴女のいる建物の前に辿り着きました。これからお伺いします」 そう言って電話が切れた。 それから数分後、部屋のドアが開いた。 「‼︎」 そこには、暗い部屋の中、開いたベランダの窓から吹く風だけが薄いカーテンを静かに靡かせていた。 私は、その風に流れて行ったかの様に、部屋から消えた。 その理由はただ一つ。 —-—女の直感だった。
- 完 -